は、いわゆる母子家庭、一人っ子で、母親と二人で18歳までは京都に住んで、大学に入ってからは東京で一人暮らしている。
ちなみに俺と母親とは40歳離れている。
小学校の時は
「俺の母親だけ何でこんなババアやねん!もっと若かったらなあ。」
「なんで俺のところだけ、父親いないねん、こんな貧乏やねん」
っとか不満に思っていた。
母親と言い合いになれば、
「違う家に生まれたかったわ!最低や」
とか平気で言っていた。
母親には18歳までは反抗しまくりで、よく言い合いをしていたから、東京に来て、のびのびできるとせいせいしていた。
上京後2年は、お盆、年末年始ぐらいしか顔をあわせなかったが、仕送りだけは毎月もらっていた。
親への甘えを、当然のこととして受け止めていた。
そんな母親が、俺が20歳の秋、くも膜下出血で享年60歳で急逝した。
ほとんどいない親族だけでひっそりと葬式をあげ、位牌と遺産800万円だけ東京に持ってきた。
その位牌も、彼女が家に来るという理由で押し入れに入れ、そのままにしていることも多かった。
徐々に、母親のことを考えることも減っていった。
いや、わざと忘れるようにしていたのかもしれない。
母親が死んでから1年半、俺が21歳の冬。
就職活動の際、本籍を東京に移動させる。
京都の家を売る。
自分の戸籍抄本をとるために京都に帰った。
そのとき、受け取った書類を見ていると何か違うと気づいた。
「養子縁組届がでている・・・母親が養親となっている・・・」
21歳で初めて養子であることを知った。
俺は考えた。
考えた。
悪い頭で考えた。
混乱しながら、京都の家に帰り、1年半放ったらかしにしていた家の整理を行った。
呆然としながら、母親と写った写真、母親の遺品を見て、初めて思い出を振り返っていた。
これまでは避けていた。
あえて避けていた。
すると、これまでそんなこと無かったのに、急に体が震え、涙が出て、嗚咽が止まらなくなった。
「○○ちゃん(俺の名)4歳の誕生日」
「○○ちゃん 入学式」
こんなタイトルのアルバム。
母親が撮ってくれていた写真。
俺の写真ばっかり・・・
丁寧に、コメント入りで、収められている。
俺がいないときに見ていたのだろうか。
何度も何度も見ていた痕跡がある傷んだアルバム。
その中で、俺はなんて幸せで無邪気な顔してんだよう・・・
俺は、恥じた。
死ぬほど恥じた。
今は骨くずのみになってしまった母親。
その位牌を粗末に押し入れにしまい放っている今の自分に。
忙しい日々で母親のことを忘れかけている自分に。
こんなどうしようもないアホ息子のわがままを聞いて、何も言わず、独りで20年育てくれた母の後ろ姿を思い出す度に、母の無償の愛に対して、
「ありがとう」
の言葉一つ言ってこなかった自分の愚かさ加減に打ちのめされた。
残してくれた800万円も母親の年収からすれば、どんだけ切りつめて貯めてくれたのか・・・
思い出せば、着飾った母親の姿をみたことがない。
母親の20年間は俺のために生きた20年と言ってもいい。
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『母親にとって自らの幸せは何だったのか?』
と考えた。
母親も一人の女性。
悩み、苦しんだ時もあっただろうに・・
そして、そんなとき、この俺は母親に何をしてあげてきたのか・・・
何もしてこなかった。。
何一つ。
「○○ちゃん(俺の名)の顔を見ているだけで、お母さん幸せだわ・・・」
今思えば、当時はうざいと聞きとばしていた、母親のこの言葉が唯一の救いだ。
俺は、今は22歳。
来春から、晴れて社会人になる。
母親が大好きだった紫のスイートピーを霊前に飾りながら、俺は思う。
今あるのは本当にあんたのおかげです。
そして、俺はあんたのたった一人の息子です。
照れるが、あんたが母親で良かった。
世界一の母親だよ。
立派な男になって、必ずあんたが誇れる男になります。
あんたとの20年間、ほんとに
幸せでした。
ありがとう。
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