戦争の真実はどこにあるのでしょうか?

真実はどこにあるのでしょうか…
戦争の悲しい話になります・・・。

昭和19年
祖父はフィリピンにいました…
私と同じ23歳の祖父です…
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フィリピンは日米の戦争に巻き込まれていました…
連日海にはアメリカ艦隊の大群が押し寄せたそうです…

ミッドウェー海戦以降の日本軍は大東亜戦争初期の勢いは無く豊富な物資と強大な工業力をもつ米軍に徐々に追い詰められていきました…

そんな中昭和19年6月15日本土防衛の為の重要拠点であったサイパン島が米軍に攻略されたそうです…
これによりB29による本土爆撃が可能となった…

フィリピンは日本と南方の石油をつなぐ戦略的な要所であり米軍が獲得に動いた…

フィリピンを守る第一航空艦隊の当時の戦力は零戦約40機しかなかった…
これだけの戦力では通常の作戦ではどうしようもないということは明らかと思われた…

大西中将は遂に
『零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどんなものだろう?』
と体当たり攻撃を部下達に提案した…

この時全員が両手を上げてこの作戦に賛成した…
当時の戦況そして搭乗員の士気というのはそのようなものであった…

神風特別攻撃隊の編成

攻撃隊が結成された翌日に・・・
戦闘機の整備兵をやっていた祖父に特別攻撃隊の友人間が語った言葉です…

『もう戦争は続けるべきではない』

しかし敵を追い落とすことができれば七分三分の講和ができるだろう…
アメリカを本土に迎えた場合恐ろしい国である…
歴史に見るインデアンやハワイ民族のように闘魂のある者は次々各個撃破され日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう…
このためにも特攻を行ってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない…
しかしこれは九分九厘成功の見込みはないでは何故見込みのないのにこのような強行をするのか…

ここに信じてよいことがある…
いかなる形の講和になろうとも
日本民族が将に亡びんとする時に当たって
身をもってこれを防いだ若者たちがいた
という歴史の残る限り
五百年後千年後の世に必ずや
日本民族は再興するであろう…

大空に雲は行き雲は流れり
すべての人間よさらば
後を頼む
征って参ります

人間は一度は死するもの
微笑んで征きます
出撃の日も そして永遠に・・・

イッテマイリマス
ノチノニホンニエイコウアレ

私が高校生の時祖父とフィリピンに行きました…
『神風特別攻撃隊』をはじめ戦没者の慰霊祭に参加するためにです…

フィリピンの方々が日本国旗を振ってくれました…

東南アジアの国々から常に戦争の責任を追及されていると思い込んでいた私は驚きました…

神風特攻隊は戦後の日本では“戦争の悲劇”の代名詞としてしか語られていません…

しかしフィリピンでは捉え方がまったく違っていました…

式でフィリピンの方のスピーチです…

当時白人間は有色人間種を見下していました…
これに対して日本は世界のあらゆる人間種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです…
神風特別攻撃隊はそうした白人間の横暴に対する力による最後の“抵抗”だったといえましょう…
そしてアジア内で唯一抵抗してくれたのです…

かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください…
立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう…
これは日本が統治下で施した“教育”の成果です…
ですがアメリカの統治を受けたフィリピンでは自分たちでモノを作ることを学ばせてもらえなかった…
人間々は鉛筆すら作ることができなかったのです…
アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした…

フィリピン人間は日本で伝えられているような“反日”などではなくむしろ親日的です…
フィリピンの人間々は戦争に対しては日本人間よりもリアリストです…
戦争があれば多少なりとも悲劇はあると現実的な考え方をしています…
ですからフィリピンの人間々は日本を責めようなどとは思っていません…
フィリピン国歌にも
『誉れ高い英雄達の生まれた国を崇めよ』
という一節があるくらいです…

欧米人間のアジア観に多大な影響を与えた神風特攻隊はフィリピンの人間々に敬われそしてその勇気が称賛されている…
日本人間はこうした現実も認識する必要があります…
今自由に発言できること
ご飯を食べられること感謝しましょう…
そして日本人間が日本を好きになってほしい…

祖父は小さい肩を震わせて泣いていました…

私は1つ真実を知ることが出来ました…
でも本当に戦争はも起きてはいけません・・・。
本当に本当に・・・
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戦争の泣ける話
戦争を生き抜いた人は強いですね

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