戦争での感動する話です。この話は戦争時のクマの話になります。
こんな感動するのかと泣きました。
まず戦時中に母クマが猟師に撃たれてイランのハマダーン付近でヴォイテクが現地の少年に拾われたのは1942年の事。
生後3ヶ月の時でした。カスピ海から上陸しイギリス軍との合流地であるエジプトを目指してハマダーンの山中を移動するポーランド軍の弾薬補給隊の兵士たちは、休憩中に奇妙な形の荷物をひきずる少年に目を留め、缶詰の肉とひきかえに少年から子クマを購入したそうです。
当初の問題はコンデンスミルクを空のウォッカの瓶に入れて飲ませる事だった。
このクマは「ヴォイテク」と名づけられた。「ヴォイテク」はポーランドの一般的な男性名「ヴォイチェフ」の愛称形であるが、もとの「ヴォイチェフ」の原義は「戦士」「武人」であり、「戦を楽しむ者」といった意味となる。
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ヴォイテクは果物やマーマレード、ハチミツ、そしてシロップを好み、ときたまご褒美として好んでいたビールをもらっていた。
またタバコを好んで吸ったり食べたりしたという。
甘えん坊のヴォイテクは兵士たちと一緒に眠ることを好み、時には夜の間に就寝中の兵士に寄り添い朝になって顔をなめて起こし、びっくりさせることもあったそうです。
彼は部隊とともにイラクに移動し、シリア、パレスチナやエジプトを経由して、南イタリアに入った。イタリアへ向かう際、輸送船で野獣を運ぶことは禁じられていたため、ヴォイテクには兵士としての階級が正式に与えられた。
輸送車に弾薬や燃料、食糧などを積み込んだり積み下ろしたりを繰り返す兵士たちを見て、ヴォイテクは2本足で立ち上がると「僕にも何か運ばせて」というように前足を差し出して車両から荷を降ろす兵士に近づき、そのまま2本足で重い弾薬の箱をトラックまで運んで積み替えると、また「次は何を運べばいいんだい?」というように戻ってきたそうです。その後は毎日熱心に弾薬の積み替えを手伝うようになったとのこと。旧ソ連の支配下に置かれ、共産主義国となってしまったポーランドには、西側についていた兵士も戻ることができないため、ヴォイテクを連れて帰ることは不可能だったそうです。ついにクマの兵士のヴォイテクは、エディンバラ動物園へ行くことになった。
軍隊の兵士たちは、ヴォイテクとずっと一緒に居たかったので あくまでも一時預けるというかたちです。
その時の約束は、ポーランドが自由の国になったら必ずヴォイテクを迎えに行くというものでした。
ヴォイテクは、ポーランド語を聞き分けることができ、ポーランド語で話しかけると、檻の中から手を振ってくれたそうです。
また、バイオリンを持って来た元ポーランド軍の中尉が舞踊曲を演奏すると、ヴォイテクはかつてそうしていたように踊り出したのだそうです。しかし迎えに行く夢はかなわず・・・。
ヴォイテクは 1963年に動物園で生涯を終えます。20年ほど生きたことになります。
幸せだったのかどうかは分かりませんが、 兵士たちとは不思議な縁であるし
まるで人間のように生きたクマの一生は不思議なおとぎ話のようです。
戦時中の話ですがこんな素敵な話があるのかと感動しました。
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